CONGRATULATIONS
MESSAGE
デイトナと私
TEAM DAYTONA ライダー
宮崎 敦
#01-
一度は諦めかけた道を、再び繋げてくれた存在
デイトナ創立50周年、おめでとうございます。僕は17歳でレースを始めましたが、所属チームではレース以外の作業に追われて、自分の理想とするレース活動ができませんでした。「もっとレースに集中したい」とチームを飛び出しましたが、先のアテもなく「来年走れなければ(レースをやめて)地元に戻るしかないな」と思っていた時、阿部(当時、社長)さんに手紙を書いて、TEAM DAYTONAに所属することができました。それまでのレース参戦は全て自己資金でしたが、デイトナでは給料とメカニックがいて、僕は走ることに専念できました。初めてプロレーサーとして扱ってくれたのがデイトナでした。僕のレーサー人生、29年のうち20年をデイトナとともに走ってきて、デイトナには感謝の言葉しかありません。
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打倒ワークス、チーム一丸となって掴んだ勝利
02年世界グランプリ鈴鹿での優勝も印象的ですが、一番記憶に残っているのは95年全日本ロード第5戦SUGOでの優勝です。当時チームデイトナはトッププライベーターでしたが、ワークスチームという高い壁がありました。レースに勝つにはワークスを倒すことが絶対条件で、市販レーサーのTZ250はあらゆる部分をチューンしました。それでもあと一歩で勝てなかった。そんなとき、当時世界GPで活躍し始めていたアプリリアRSV250を阿部さんが現地で即決購入し、用意してくれました。テストでTZとRSV250を乗り比べ、アプリリアの可能性に賭けました。というか、貴重なマシンを購入してもらって「乗る」しか選択肢はなかったですね(笑)。アプリリアは最初から速さはあったけど、安定性に欠けた部分もあり、メカニックと二人三脚でセッティング作業を繰り返してマシンを作りました。こうしてワークスを倒して勝ち取った全日本での優勝。これはレースを走った僕一人の力ではなく、阿部さんの執念と文字通りチーム一丸となって掴んだ勝利で、僕のレース人生でも一番の思い出です。表彰台の頂点に立ち、会場にいた阿部さんが泣いて喜んでくれたとき、ようやく一つ恩返しができたとホッとしたことを憶えています。
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ライダーに夢を与える商品を産み続けてほしい
デイトナには、常に新しいことにチャレンジし続けてもらいたいと思っています。チームとして一緒にレースを戦ったデイトナには、ライダーをワクワクさせたり、あっと驚かせてくれるような夢のある商品が年に一つや二つあっても良いんじゃないかと思います。僕のレーサー時代もたくさんの失敗を重ねてきました。そんな時、阿部さんから「挑戦して失敗するのは当たり前、次に絶対失敗しないように、そこから学ぶことが大事」ということを教えてもらいました。これからのデイトナにも大いに期待しています。
モータージャーナリスト
カズ中西
#02-
スタビライザーでカスタムの楽しさを知る。
創業50周年を迎えるデイトナ、おめでとうございます。今回改めてデイトナとの接点を話すと、高校2年(1984年)の頃、RZ250RRを新車で購入して、初めのうちはノーマルで満足していました。そのうち信号待ちで同じバイクと並んだ時にカスタム意欲が湧きました。とは言え、当時流行していたバックステップやレーシングチャンバーを買うのは予算的に厳しい。二輪専門誌の広告ページを見て、アルバイト収入で購入できそうだったのが、デイトナのフロントフォークスタビライザーでした。取り付けはボルトオンで簡単、フロントサスペンションの剛性が上がったか否かは体感できなかったけれど、量産型から「俺専用機」にアップグレードした満足感は十二分でした。
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箱付きでもスポーティ
90年代に入って大型スポーツツアラーでロングツーリングを楽しむトレンドがあり、当時ハードケースは走りずらい、すり抜けしづらい、車体デザインを崩してカッコ悪いなどでソフトバッグを使っている人が多かったように思います。僕は95年にGPZ1100パニアケース仕様、99年は専用サイドケース装備の1000GTR/CONCOURSに乗っており、いわゆる「箱付き」は皆が心配するほど走行性能をスポイルしないと知っていました。その後GIVIのトップ&サイドケースをつけたXJR1300でタンデム&ロングツーリングする二輪専門誌の連載企画で、北は宮城県、南は熊本県、鳥取や新潟など全国を走って「箱付き」の正しい情報を伝えることができました。GIVIケースで思い出深いのは、デイトナのCBR1100XXスーパーブラックバード・フルパニア仕様。プレス向け試乗会で「箱付きでもスポーティな走りができることを証明したい!」と当時のGIVI担当者にOKをもらい、フルバンク&膝擦り走行を披露しました。デイトナとは2003年頃からスクーターやミニバイク系の製品開発や性能検証でお付き合いがあり、ちょっとだけ恩返しの意味合いもありました。僕らが思っていた以上にインパクトのある走行シーンだったみたいで、今でも語り草になっているようです。
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バイクのある風景が当たり前の世界
僕が子供の頃、商店の前にスーパーカブが停まっているのはごく自然な風景、街で見かけるバイクは颯爽としていて憧れを抱きました。仮面ライダーを筆頭に、ヒーローはバイクをカッコよく乗り回していた。群れてやかましい暴走行為は嫌いだけれど、一人ひとりと話してみれば根っこの部分は同じバイク好き。80年代バイクブームもリアルタイム&ど真ん中、大げさに言えば日本のバイク文化と共に歩んできたように思います。バイクは扱い方次第で、楽しめる乗り物にも危険な存在にもなりうる。マナーの悪さが新たな規制を作ってきた50年だったと思います。規制が増えれば息苦しく、とても楽しい気分では乗れない。これから先はマナー良くバイクと付き合うライダーが増えて、社会から認められる存在になれば良いなと思います。デイトナはヘンリーさんの渡米経験に由来する発見期、ニーズに合わせて新たなパーツやライディングギアを用意してきた創造期を経て、脱炭素を目指す社会の中でユーザーのために何ができるかを考える発想期に来ていると思います。これから先、デイトナに期待することは日本のバイク文化が世界をけん引するよう、ものづくりでその一役を担って欲しい。今よりもバイクが社会に受け入れられ、バイクのある風景が普遍的になるような世界観の手助けをして欲しいと思います。
モデル・タレント・レーサー
梅本まどか
#03-
近くにデイトナがあって良かった
デイトナ創立50周年おめでとうございます。
2017年に初めてデイトナさんを訪問した時、家からちょっと走ったら着いてしまう距離に「こんなバイクの会社がある!」と驚きました。私は東海エリアを拠点にタレント活動していてデイトナさんには親近感もあり、茶ミーティングに参加した時は、そのまま森町を楽しくツーリングしたり、さらに下道で行っても程よい距離感。デイトナさんは沢山のパーツをいろんな会社と協力して開発・販売したり、テストコースも持っていたり、何よりバイク愛に溢れた方が沢山いる素敵な会社が身近にある事が、私にはすごく心強く感じました。 -
バイクの楽しみ方が広がった
実は私のバイクを初めてカスタムしたのはデイトナさんのパーツ。バーエンドやキャップをゴールドにして、今までより少し華やかにしました。大きく変えた訳ではないけど、私にとって愛車のちょっとしたオシャレを教えてくれたのがデイトナさんでした。バイクにはいろんな楽しみがあると今は思っているのですが、乗り始めた頃、周りにバイク乗りがいなかった私にとって、初めてのカスタムはバイクへの考え方を変えたり、楽しみ方の幅が広がった瞬間でした。茶ミーティングで警察の方から安全運転やバイク事故についてお話しを聞くことで「長くバイクライフを楽しみたいな」と考えたり、デイトナさんは暑さや寒さを凌ぐグッズからキャンプ道具まで幅広い快適アイテムを扱っているので、いつも「こんな楽しみがあるんだ!」と気になったり、使いたくなる商品が多い気がします。
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ライダーにやさしいパーツがたくさん
「快適なグッズが多く、お値段もリーズナブルでわかりやすい!」が私のデイトナさんのイメージ。今はインカムも便利な機能が沢山ついているけど、デイトナさんのインカムは機能を全部詰め込むより、シンプルでわかりやすく、使いやすさを優先していると凄く感じます。スマホホルダーも簡単に取り付け・取り外しができたり。ライダーにとって、あると便利なものは増えているけど、それが使いこなせるかどうかも重要だと感じています。デイトナさんの商品開発は、キャンプが好きで実際にテント泊を楽しんでいる方がキャンプ用品を作っていたり、音に拘りのある方がインカムを担当していたりと、スタッフのみなさんが実際に試して改良しているので、使ってみると心にもお財布にも「やさしさ」を感じます。女性の方はわかりやすくて使いやすい物を選ぶ傾向がありますが、そこはバイクに乗るみなさんも感じている点だと思います。
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バイクを愛するすべての人のために
デイトナで働いているみなさんは、自分が欲しい物や必要とする物を話し合い、楽しみながら作られているように感じています。ホントにいろんなバイクの在り方、お互いの使い方を尊重しながらどんどん意見を言ったり、担当した物への拘りを聞くと次から次へと言葉が出てくるくらい、その商品に深い愛情を持っているといつも感じます。イベントも商品も「バイクを愛している」方々が作っているからこそ、ライダーに響くものができているんだなと思います。デイトナさんの50周年記念の1年はどんな年になるのか、私もとっても楽しみです♪
モーターサイクルジャーナリスト
太田 安治
#04
創業50周年おめでとうございます。
オートバイが「移動の道具」から「趣味性の高い乗り物」へと変化したのは60年代後半。同時に走りの機能やルックスを自分好みに変えるカスタマイズも広がり始めたが、その頃のカスタムパーツはイギリス、イタリア、アメリカなどの海外ブランドが主流で、高価なうえに装着に加工が必要な製品が多く、一部のマニアや富裕層の愉しみと捉えられていた。
だから75年にデイトナが市販した『セブンスターキャストホイール』は衝撃的だった。当時メーカー純正キャストホイールは国内認可待ちで、欧米ブランドのホイールに憧れながらも手が届かなかったユーザーには最高のプレゼント。この製品の高品質、低価格でデイトナブランドは一気に認知されたと思う。
僕は80年代にオートバイ誌でカスタム車紹介企画を担当していたが、デイトナ製パーツの装着率は着実に高まっていたし、自分のCBX400FやCB750Fにデイトナのスタビライザーやバックステップ、ステアリングダンパー、ブレーキパッドを装着して、カスタムによって走りが大きく変わることを体で感じた。こうした機能パーツだけを見ても、デイトナ製品が走る楽しさを広げ、日本のカスタム文化確立に貢献したことは間違いない。
株式会社 内外出版社
「ヤングマシン」編集長
松田 大樹
#05
50周年おめでとうございます! 実はヤングマシンも‘72年創刊なので、今年の秋に50周年を迎えます。同級生ですね!
そんなデイトナさんとのご縁を問われて思いついたのは、2005年4月の高速道路タンデム解禁。バイクの使い方も変わったはずですが、それより印象深いのはバイク用品店の品揃えです。当時の僕はヤングマシンと無関係の1ライダーでしたが、天井からおびただしい数のマフラーをぶら下げていた用品店が、その頃を境にトップケースやキャリアといった品揃えにシフトしていったことをハッキリと覚えています。当時のマツダ青年はスーパースポーツ命。箱や荷台が並んだ商品棚を「ダッセえなぁ」と冷ややかに見ていたんです(笑)。
ところが20年が経過した今、愛車にはデイトナさんのキャリアとトップケースがバッチリ装着されているのですから節操も何もないのですが、‘90年代には原付カスタムパーツで高校生を鷲掴みにした(僕もお世話になりました)デイトナさんも、この頃になるとタンデムベルトや有線式のインターコムなど、積極的にツーリンググッズへ進出している様子が誌面からも読み取れます。実際、デイトナさんが扱うGIVIケースの現在のラインアップは、販売をスタートした1996年の3種類から32種類まで拡大しているのだとか。
ジャンルに縛られず、時代ごとに求められる製品を的確に供給し続けてきたデイトナさん。ライダーに添い続け、常に変化されてきたからこその50年なのでしょう。翻って同じく50周年の我がヤングマシン。2005年当時の記事を紐解くと、そこにドカーンと踊るのは「SCOOOOP!」の文字。ああ、やってること全然変わらないじゃん……。
株式会社 H&L PLANNING
「ヘリテイジ&レジェンズ」編集長
月岡 洋一
#06
株式会社デイトナ創業50周年、おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。
デイトナ様に関わる印象深い出来事といえば、JMCA(全国二輪車用品連合会)の設立に奔走された時期のことだろうか。
JMCA設立の1989年は、私が日刊自動車新聞社に勤務した時期で、当時は4輪のスポーツパーツを担当。同夏には暴走族による一般人暴行死亡事件をきっかけに警察が違法改造車の摘発に乗り出した。それはカスタムとチューニング趣味の領域に及び、その取り締まりは苛烈。2&4輪のアフターマーケット、特にマフラー・メーカーなどシリアスな状況に陥った。
私の担当した4輪分野では同年10月にJASMA(日本自動車スポーツマフラー協会)が発足し、遵法の下、JASMA認定マフラー制度をスタートし事態収拾を図り、日刊自動車新聞ではその概要を逐次詳報したものだった。
一方の2輪では、デイトナの社長だった阿部久夫様(現・相談役)が音頭を取り12月にJMCAが発足、メーカーに止まらず卸商社や小売店まで含め当初から300社以上が賛同したと聞き驚いた。先のJASMAの当初会員は32社だったのだから。後に聞けば事件以前から、グレーゾーンだった改造に関する法律を徹底的に検証し、アフターパーツの合法・非合法をはっきりとさせ、業界の社会的地位を向上に向けて、各社に働きかけを行っていたという。
ともあれ、JMCAの活動が後の各種規制緩和やバイクメーカーによるオプションパーツ採用、政府認証マフラー制度の整備など、アフターマーケットパーツの社会浸透に多大な貢献をもたらしたことを思うと、デイトナ様の将来を見通した慧眼には感服させられる。
株式会社 クレタ
コミュニケーション局 副局長
桜井 大輔
#07
この度は「株式会社デイトナ」創業50周年、心よりお祝い申し上げます。
ビギナー、ベテラン問わずライダーのバイクライフをトータルでサポートして頂いていることは一業界人として非常に感謝しております。今後とも、さらなる発展を心よりお祈り申し上げます。
かくいう私も恩恵を受けた一人であり、バイクに乗り始めた十代の頃より御社の各種ギアを使用させて頂いております。十代の頃は国産のアメリカンブームやトラッカーなどストリートカスタムが全盛でした。“DIYカスタム”や“ボルトオンパーツ”という言葉もその辺りから広がっていった記憶があります。そのブームの一端を担っていた御社のパーツも非常に活用させて頂いた記憶があります。用品店に置かれたカタログを吟味しつつ…。
また、その時期に横行していた違法カスタムをなくすためにJMCAが制作したカスタムの手引き書に多大な協力したというのは素晴らしいことだと思っております。
現在改めてTW200を手に入れたため、原点回帰と共に今の時代や年齢にあったカスタムに勤しみ始めました。ちょうどその世代の人がリターンし始めている時期でもあるので、また新しいストリートカスタムのブームを興しましょう!
株式会社 三栄
「モトチャンプ」編集長
成島 義人
#08
株式会社造形社で発行しております、モトモト編集部山ノ井と申します。デイトナ様50周年おめでとうございます!!
デイトナ様とは編集部に入ってすぐにお付き合いさせていただき、早17年。17年もの間の思い出はここではまとめきれないほどありますが、その中でも4ミニ専門誌となった2005年5月号に掲載させていただいたモタード外装キットに、119ccのツインカムヘッドを組み込んだモンキーは今だに忘れられない、これからも記憶に残しておきたい1台となっております。その他にもバーチャルステアフレーム、スーパーチャージャー、縦型エンジン用4バルブヘッド、セブンスターホイールなど、他にはないアイデアを具現化し、4ミニ業界を盛り上げていただいたデイトナ様には編集部としてはもちろん、イチ4ミニユーザーとしても御礼申し上げます。
当時は新東名高速がなく、編集部から4時間近くかかる道のりを毎月、多い時は月に2回は走り(この時に長距離運転のノウハウを学びました!!)、エンジンをバラバラにして組んだり、MCペインターで自家塗装させていただいたり、スタッフの皆様と取材といいつつツーリングさせていただいたり、テストコースを何時間も走らせていただいたり、朝から晩まで取材にご対応いただきありがとうございました。取材後には袋井IC手前の「餃子の丸福本店」でご飯がルーティンとなっていたのが懐かしい話です。
話が盛大にズレてしまったような気もしますが、デイトナ様には自分自身も誌面も共に成長させていただきました。これからもミニバイク、二輪業界を一緒に盛り上げていければ光栄です。目指せ100周年!!
モーターサイクル
ジャーナリスト
埜邑 博道
#09デイトナさんとのお付き合いは、もう30数年になるでしょうか。いろいろな思い出がありますが、とても印象に残っているのが、創業者で初代社長のヘンリー阿部さんが、ボクが勤めていた会社を訪問されたときのこと。当時は新米編集者で、知識も見識も薄っぺらだったボクの話を、阿部さんは真剣にお聞きになり、一生懸命メモを取られていました。社長さんなのにメモなんて取るんだ、という意外な思いと同時に、何でも吸収しようとする真摯な姿勢に感銘を受けました。20年以上の企業生存率は50%と言われる中、ずっと成長を続けてきたデイトナさんの成功のひとつの要因は、そんな初代社長の姿勢が息づいているからかもしれません。
もうひとつ、2005年に始まり2019年まで連続開催してきた「DAYTONA・森町・静岡茶ミーティング」、通称・茶ミーティング。このイベントが始まったきっかけは、BikeJIN(現:実業之日本社発行)主催のイベント「BikeJIN祭り」の開催前夜(2009年9月4日)の酒席での会話でした。前泊のホテルがボクと同じだった、当時、デイトナさんの営業のグループリーダーだった石田敬一郎さん(現ダートフリーク代表取締役)と話をしていると、石田さんが「静岡県には大きなバイクイベントがないんで、我々でやりたい」とお話しになりました。酒の勢いもあって、「BikeJINも協力するからやればいいじゃん(筆者)」、「じゃあ、来年やろうか(石)」、「そんな先の話じゃなくて、すぐやろう!(筆者)」みたいなノリになり、わずか2カ月後にプレ開催の形で第1回が開催されました。初回から500人を集める盛況となり、以来、毎回満員大入りになるほどのイベントに成長したのは周知のとおり。CMじゃないけど、やっぱりノリと「えいや!」は大切ですよね!
株式会社 KAHMZ
編集者
善田 圭二
#10
デイトナ50周年おめでとうございます。自分が造形社発行の「カスタムスクーター」編集部に入ったのは2010年ぐらいだったと思います。その名の通り、スクーターカスタムを専門に扱う雑誌で、主に250ccクラスのビッグスクーターがメインでした。そのブーム到来は2000年代前半から中盤にかけてではないでしょうか。フュージョンのカスタムがカッコイイと認知され、フォルツァやマジェスティが登場し、マグザムやジェンマと言った個性的なモデルが発表された頃が一般的なブームの最高潮だと思います。各メーカーから新型やモデルチェンジが短いスパンで発表され、見かけない日はないぐらい街に溢れていたと思います。以降はエアロやオールペン、電飾にオーディオなどなど、カスタムが熟成していったと思います。カスタム嗜好向けのマジェCやフォルツァのオーディオシステムなど、純正車両にもカスタムが反映されていたのが面白かったですね。
カスタムスクーターはそんなビッグスクーターの流れと一緒に育ったと思います。ユーザーさんも若くて勢いがあり、イベントやミーティングなどとても楽しかったです。カスタムされた車両は日本が世界に誇れるひとつの文化だったと思います。エアサスや4輪ホイール、他車種のエアロをワンオフで取り付けたり、スクーターならではの車体全面をキャンバスとしたオールペンは、SNSが今ぐらいに流行っていたら世界中に発信されて、当時とは違った捉えられ方がされていたのでは、と思います。
当時は撮影会やイベントを開催すれば1000人近くのユーザーさんが参加し、日没までに撮影が終わらない、なんて事も…(2006年のデイトナサーキットでは溢れるビッグスクーターでご迷惑をおかけしました笑)。カスタムコンテストに100台以上がエントリーし、ショップさんなどのブース出展も多数あり、まさにお祭り騒ぎになっていました。
デイトナ製パーツで思い出深いのはメッキのスイッチボックスとマスターシリンダーですね。ハンドル周りのドレスアップには欠かせないアイテムとなっていて、多くのユーザーさんが選んでいました。あとはステップボードかな、ドレスアップ効果抜群のデザインで、ペイントで塗り分けするなど足元のオシャレを楽しんでいましたね。
自分は残念ながら新型がバンバン発表されていたバブル(?)の頃は編集部として体験できなかったのですが、カスタムをユーザーさんが思い思いに楽しんでいた“ビッグスクーターカルチャー”を共有できたのはとても良い思い出になっています。
モトメカニック編集者
たぐち かつみ
#11-
一味違った「何か」を気が付かせてくれて、ありがとう!!
趣味のバイクいじりが嵩じて、某自動車メーカーの技術屋からバイク雑誌業界へ転職。これまでには無かったバイク雑誌と言うか「パイクいじり雑誌」を作ってみたい想いが強くあり、後にモトメンテナンス誌を創刊。そして現在は、モトメカニック誌編集長として、デイトナさんから発売される商品を楽しみにしている、ひとりのファンでもあります。
独自の目線で開発される商品には興味深いものが多いです。例えば、ロックタイト(パーマテックス)のようなプロ用ケミカルを一般ユーザーでも購入できる位置付けにしたり、純正部品と同じ電装ハーネス用カプラやギボシ端子をユーザーが欲していると知れば、そんな小物部品でも商品化してしまうなど、ぼくらサンデーメカニックにとっては「小回りが効くメーカー」としてのデイトナにも、大きな期待を寄せています。
デイトナ創業50周年、おめでとうございます。これからも「ユーザー目線に立った商品づくり」を忘れることなく、一味違ったもの作りから新しい「何か」を、気が付かせて頂ければと思います。そして〝デイトナスピリッツ〟を後世に伝え続けて頂きたいと思います。応援します!!
漫画家
イラストレーター
世太郎
#12
「デイトナ50周年」おめでとうございます。今回のメモリアルに立ち会えて、こうしてコメントを残せるのは嬉しい限りです。私も長くフリーランスで活動してきて思うのは、半世紀に渡り継続していく難しさは並大抵の事ではありません。
その内の11冊分となるデイトナカタログの表紙イラストに携わり、10年を経てようやく馴染んできた気がします。そこで現在はデジタル原画が主流の為、この機会に制作過程を少し紹介できればと思います。
まず資料画像を元に下絵となる線画を描きますが、液晶タブレットに直接描くデジタル原画では、作画面を拡大しながら細部まで描き込めるのでアナログより手間が掛かる分、仕上がりの見栄えが格段に違います。その際、修正やレイアウトしやすいように背景も別で描いて、後で重ねたり入れ替えられるのもデジタルの良い所で、最後に着色して完成となります。
当初と比べて試行錯誤しながらスキルアップできたのは、これまで長い目で見て頂いたおかげと感謝しています。またこの先も、ライフワークとして続けていければ理想的です。
ライダースサロン オグリ
代表
小栗 辰弘
#13
創業50周年おめでとうございます。
デイトナとは磐田バイパスの岩井インター近くに黄色い本社を作った頃からのおつきあいになるので、かれこれ36年になります。いろいろなことがありましたね。
私はバイク屋なんだけど、実は昔デイトナのマフラーやチャンバーを作っていた時期がありました。修行時代の先輩がデイトナにいて「うちのマフラーを作ってくれ!」なんて言われて。「えっ?」と思ったんだけど、うちにも事情があって…。最初は月産30本ぐらいの予定だったのが、最終的には200本ぐらいやっていたかな。死ぬ気で作って「やったあ、納品終わった!」なんて言っていたら電話が来るんですよ。「もう20本作ってくれ」だって。余分に部品を仕入れているのを知っているんですよね。で、こっちもやっちゃう。だから200も300本も作るようになっちゃって。うちのお客さんに「ここバイク屋だよね?」なんて言われたぐらいです。
結局、バイク屋かマフラー屋かわからなくなっちゃって、マフラー生産を辞めて本当にやりたかったバイク屋一本で行くことにしたんです。でもデイトナは優しい会社で、それからバイク屋として付き合ってくれたんですよ。いまではデイトナの中では一番小さい販売店なんじゃないかな。だから今うちの店があるのは、デイトナのおかげなんです。
デイトナの凄いのはブームを自分たちで作っちゃうところ。カスタムブーム、ミニバイク、シングル、スクーターとか。スタッフの「こういうことをやりたい」なんてことを市場が受け入れる。そして流行になっていくんです。それはスタッフ一人ひとりの底力があるからじゃないですかね。今年のセブンスターホイルの復刻もそうだし、わたしの車検部品の問い合わせに対しても、丁寧に書類まで作ってくれたりする。そういうのも一人ひとりのスタッフの頑張りからですもんね。
そんな凄い会社ですが、デイトナも「やっちゃった」ことが結構あるんですよ。例えば「ナント!コインホルダー」とか。どんなものかは調べてください(笑)。
と、いろいろありますが、デイトナさんとは未来永劫、付き合っていきたいですね。というか、付き合わせてもらいたい。そう思える会社なんです。
最後に僕がデイトナの広告コピーを作るなら「奴らから目を離すな!」かな。面白い提案がいっぱいある会社ですよ、デイトナは。
これからもよろしくお願いします。
株式会社デイトナ
M&A推進部 部長
竹内 一
#14
阿部商事株式会社(株式会社デイトナの前身)に入社いたしましたのは、国内では藤田監督率いる我らの読売巨人軍がリーグ優勝を果たし、海外ではチャールズ皇太子とダイアナ嬢がめでたくご結婚された今から約41年前の1981年8月17日、夕方に秋の涼しい風を感じる頃と言われる季節でしたが、その日は早朝から真夏日で、スーツ着用で行なった仕事は、計らずも社外作業でした。
3日間、確かナイジェリア向けだったと記憶いたしておりますが、何かの部品かあるいは原材料の一部か定かではない代物を輸出用木箱に丁寧に梱包し、蓋を閉め、平型鉄線で留め、更にそれを釘で固定する作業をスーツ姿で汗だくだくになって行ないました。それ以来、特別なイベントではない限り、スーツ着用での出社は影を潜めました。
こうして、私の第二の仕事人生の幕が上がりました。
その後、数々の出来事が降り掛かってきた訳ですが、今でも決して忘れられない事件をご紹介いたします。
入社後、何年か経過したある日、会社に出勤すると、私の机の上に角形2号の分厚い茶封筒が無造作に置かれておりました。
差出人は、掛川地方裁判所、宛名は阿部商事株式会社となっておりました、見るからに怪しそうな外観でしたが、おそるおそる開封して見ると、なんと生産物賠償責任保険(PL Product Liability Insurance)絡みの訴状でした。当時、当社を含めて台湾、日本、そしてアメリカの約8社がペンシルベニア州にお住いの男性から訴えられました。
詳細な経緯は割愛し、それから約1年間、社外専門家のご支援をいただいたものの孤立無援で対応し、最終的にLAX近郊の地方裁判所での翌年9月の初公判(First Trial)出廷まで交渉が進みました。最終的には、示談が成立し、事なきを得たわけですが、事件の真相は解明されず、私が学んだものは恐れと孤独だけでした。
それ以来、アメリカ向け貿易取引において2案件の弁護士が絡んだ出来事を経験し、恐れと孤独以外の多くのことを国内外の取引先様、特にアメリカのお得意先様から学ばせていただきました。
かつて、“会社は教育機関ではない、自分の育成と成長は自分で考えろ。”と言われたことがありますが正にその通りです。学ぼう、あるいは成長しようとする強い意志さえあれば、周りが自然と助けてくれます。これが、私が阿部商事株式会社から株式会社デイトナを通じて学んだ初めての王道であります。
上記以外にも、1989年11月9日のベルリンの壁崩壊後のフランクフルト第一便で帰国した際に空港でインタビューを受けたこと(多分、記念に新聞記事を保管)や、海外でのレンタカーでのトラブル等、枚挙にいとまがありませんが、それ以上に素晴らしい忘れられない経験をさせていただきました。
今後、株式会社デイトナは次の100周年記念を目指して更に成長し、発展して行くことでしょう。
その時を楽しみにしながら、また新たな試みに挑戦して参りたいと心密かに願っております。
株式会社デイトナ
コンプライアンス
岩崎 秀揚
#15
“前の会社を退職しようと考えていたのが38年前。次の会社を模索していてふと思ったのが、どちらにせよ面接試験がある。練習せねば。友人が「デイトナ」という会社で募集していると教えてくれた。取り敢えず面接の練習がてら、冷やかしで受けてみよう。
当然、務める気が無いので服装はGパンとTシャツ姿、原付バイクで臨んだ。いざ面接。いきなり現職の給与明細を見せて、これ以上貰えるのと当時の中村専務に切り出す。「良いよ」と即答をもらう、、、、、?
そこから色々説明を受けていると、ランニングシャツを着た オジサンが入ってきた。人の面接中に失礼なおっさんと思った。(掃除のオジサンと思ったが、不純な動機で面接を受けている私自身の方が余程失礼である)
それが当時の阿部社長だった。
どうせこの会社には務める気が無かったので、動じることもなく言いたい事、聞きたい事を聞いた。その時阿部社長が、ゆくゆくは長野県の取引先にはヘリコプターで行くようにしたいし、サーキットも作りたいと言った。阿部社長の独特な雰囲気と野望に満ちた眼差しの奥に、この社長(会社)の底知れぬポテンシャルを感じたのを昨日の様に覚えている。
どうせ受かる訳がないと思っていたら、明日から来てくれとの連絡がきてそれから現在まで38年間務めてきた。ただ途中何度も挫折した。現に数十人の同僚が去っていったし私も3回辞表を提出した事がある。
でも、何故辞めなかったのか?今思うに、家族の事も考えると転職する勇気が無かったのもあるが、普通の会社では到底経験出来ない事や、この会社特有なワクワク感がたまらなかったからだと思う。
23歳で勤めはじめ、今年で60歳の定年を迎える訳だが、ある意味この会社での仕事をベースに色々学んだ。私生活でも結婚し、親になり、マイホームを手に入れた。思い返してもこの会社を選んだ事に、今現在一切の後悔はしていない。今は後進育成に注力している公開会社になり、優秀な人材が入ってくるようになったのは事実で業務も、色々と仕組みやマニュアルでスムースになった。
しかし、入社当時の目的達成にむけて泥臭く行動するデイトナスピリッツが、少し希薄になってないかと感じる時がある。なので38年お世話になった会社だからこそ今後は自分なりに理解・実践してきたデイトナの経営理念を、自分の言葉と行動をもって後進に伝えていけたらと思っている。
株式会社デイトナ
カスタマーサポート
高橋 里枝
#16
今年は節目の50周年に立ち会えるということで、自身の社会人としての歩みがそのまま会社の歴史と重なることに感慨深いものがあります。
また、会社の歴史を振り返ると、人や建物、テストコースなどその変化に驚き懐かしく思うと同時に、これから先へと続く会社の未来もまた楽しみです。
(特に毎年発刊の総合カタログは入社当時約60ページだったものが、2022年は約1160ページにまで膨らみ、取り扱い商品点数が増えた事に驚くばかりです。そして自身のカタログも追加情報を書き込むため、次年度のカタログが発刊する頃には3割増しの厚さになりカタログも成長しています)
今まで色々な部署を経験してきましたが、その経験と諸先輩方のアドバイスが今とても役立っています。
今後もお客様からの「信頼」「信用」を得て、喜んで頂ける商品やサービスをお届けできるように頑張っていきたいと思います。
株式会社デイトナ
経営企画室 室長
木田 光彦
#17
1987年8月入社以来、35年間の歳月が過ぎ、振り返れば多くの経験をさせてくれた。
入社数年後に営業部隊に配属された。当時、営業は一番不向きな仕事だと思っていた。
「バイクカスタマイズ文化の創造」に共感していただけるお客様も多かった。「デイトナ」という看板に感謝することも多かった。数ある経験の中で、営業時代の経験は思い出深い。仕事を通じて私を成長させてくれた。いろいろあったが今はそう思える! 私も今年還暦を迎えるが、会社や仲間に恵まれ、この創業50周年の機会に立ち会えることを心から感謝したい。
株式会社デイトナ
プロモーション
熊坂 多加史
#18
1987年。スクーターレースに夢中だったミニバイクレースブームの全盛期。
毎週のように千葉県にある新東京サーキットへ通い、レース用に改造したYAMAHA JOGを走らせていた頃、チームデイトナもSUZUKI HIで参戦してきました。当初、ほとんどの車両は、外装を外し純正フレームに補強を入れた車体に
パワーアップしたエンジンを載せたシンプルなものが主流でしたが、
デイトナの改造スクーターは、レース毎に新しいパーツが投入されていきます。
高回転高出力タイプのエンジンに対応するための水冷シリンダーとシリンダーヘッドや専用に設計されたアルミフレーム・アルミホイールなどスクーターの面影は一切ないまさにレーシングマシン!
「こんなにすごいスクーター作る人達と一緒に仕事がしてみたい」と1988年に入社。スクーターレースをきっかけに入社したデイトナで、多くの仲間と共に、いろいろなことにチャレンジさせていただきました。
あれから34年。現在は、動画制作などを勉強中。パソコン音痴の私には、わからないことだらけですが、新しいことへのチャレンジは楽しくさえ感じます。
デイトナは今年で50周年を迎えますが、更なる発展を続けようとしています。
私もデイトナに負けないよう、まだまだ成長させていただきます。
株式会社デイトナ
プロモーション
鈴木 清子
#19
当時、バイクのレースがタダで見られる!という不純な動機で求人に応募したワタシ。全日本選手権シリーズに参戦していたチームデイトナのパドックにも出入りさせてもらえたりして嬉しかったなあ。
同僚たちともよくレースを見に行った。今だから言ってしまうが、ハイエースの荷台(バイクを積むところ)に、誰かが持ってきた「コタツ」を積んで筑波サーキットに行ったことがあった。もちろん電源はないので暖かくない。おまけにカーブを曲がるたんびにテーブルに並べてあるお酒やジュースのビンがシャーッと動くので、それをみんなで抑えながら道中を過ごした。そんなおバカ具合が最高だった。(もちろん当時でも運転者は禁酒でした!)
土日休みに会社に行くと誰かしらいて、スクーターのウイリー練習や、果てはカートのプチレースまでやっていて、だから何の用事がなくてもなんとなく会社に集まっていた。
そんな風にのんきに過ごしてきた時代を過ぎ、ワタシも一人前に仕事の悩みで一度辞表を出したことがある。当時の阿部会長(現 相談役)は、辞めるといったワタシをお昼ご飯に連れて行ってくれて、高いざるそばを(それも2枚)ごちそうしてくれた。
仲の良かった先輩や仲間は、辞めないようにと相談にのってくれたり、ご飯を食べさせてくれた。(食べ物には弱い)後になって引き留めたことが本当に良かったかどうか・・・と言ってくれた人もいたが、ワタシ的にはあのときに辞めなくて良かったと思っている。当時の仲間はほとんどが独立したり異動したりして話す機会は減ったが、今でもみんなには感謝している。
そんなことを思い出していくと、ワタシにとってはデイトナ=仲間、という言葉が一番しっくりくる。良い時も悪い時も、必ず近くに頼りになる上司や先輩、仲間がいてくれたのは間違いない。
終身雇用が当たり前だった昭和から平成を経て令和となり、社会や会社に対して貢献度や成果が重要視される「実力主義」の時代になった。確かに今はそれが社会人として大前提。だけども、これからデイトナを背負っていく世代には「いつか、また一緒に仕事をしてみたい」と思われるような人たちであって欲しい。ここで仕事をしてきて、楽しくて頼りになる仲間にいっぱい出会ってきたオバちゃんは、おせっかいにもそんなことを思ったりする。
あと、いつか阿部相談役に「ワタシにごちそうさせてください!」って言ってみたいなあ・・・。
(無理すぎ?)
株式会社デイトナ
経理
鈴木 由里子
#20
今更ながら「よく34年近くこの会社にいさせてもらえたなあ」と、思いながら、来年の定年まで業務をしている毎日です。
前職は結婚を機に退社し、取引先であるデイトナへご縁があって就職することとなりました。
入社した当初は社員数も30人余りと少数ながら年齢層も近く元気が有り余っている雰囲気のなか、会社内容もバイクのことも何にも知らない私もデイトナの社員として経理デビューさせてもらいました。
鈴鹿へのレース観戦ツアー、取引先との年1回の交流会、謝恩会、社員旅行とイベントも賑やかで楽しい思い出です。若かったなぁみんな。
会社が社員教育に力を入れていた時代でもありPHPの京都宿泊研修等、様々な職種からの研修生と共に勉強することで自分の考え方を見直す機会も与えてもらいました。
長く同じ経理という職種に携わり店頭公開を機に社員数も増え仕事内容も忙しい日々へと変わりつつ次第にデイトナの「おかあさん」的存在?または「口うるさいオバサン」となってしまっている今の自分が良いのか悪いのか、はたまた迷惑なのか・・・。
社員みんなの本音はどうなのでしょうか?
デイトナの社員となり、私生活では妻となり、母となって、今は2人の女の子の「ばあば」でもある自分。楽しい事も、悲しい事も、怒ったり、辞めたりしようと思ったこともありましたが、全て丸っとまるめたら「楽しいよ」で収まりそうです。
まだまだ50年、「道は続くよどこまでも・・・。」と願っています。
株式会社デイトナ
コンプライアンス 室長
袴田 良
#21
思えば1989年に入社してもう33年も経つんですね。
ちょっと驚きです。でも私自身は全然進歩してないなぁというのが実感。
デイトナでは、色々経験させて貰いました。
国内営業で入社、その後4輪事業立ち上げで営業2課へ。4輪向けブランド「ディーキャトロ」は、今でこそプロトさんへ行ってしまいましたが、無我夢中で苦労しながら創ってきた良い思い出です。当時4輪が好きと言うだけの理由で担当させて貰いましたが、部門の新規立ち上げなんて何をどうすれば良いのかわからず、とにかく行動を起こすことでそれがいずれ結果に繋がっていくことを学びました。その後も、宅配事業や事業開発グループでの電動アシスト自転車の企画なども。思えば新規の事って不安はありながらもワクワクする要素が高く、楽しく仕事ができたのかもしれません。ゴールをイメージしながら、色々構想を考えるのは楽しい。自分のやったことで結果が決まるのもやりがいに繋がります。
当社は2輪の事業が主体の会社ですので、新規の事をやらせて貰えるのはごく少数の人たちです。こういった面では恵まれていたのかもしれませんね。
会社の雰囲気は、バイクという趣味を仕事としていると感じているスタッフが多いこともあり遊び感覚が強い。好きな連中がワイワイやりながら、面白い商品、買いたくなる商品を企画し立ち上げて、それを販売するといっただいご味は何処にもないものでしょう。
ここのポイントは、社外の人から一番羨ましがられるところです。
現在は、商品を立ち上げるに直接関われる部門ではないですが、間接的にサポートさせて貰っています。
50周年という節目ではありますが、まだまだデイトナがは発展、永続していく企業でありたいなと思っています。次回こんなコメントを書くのは何周年の時なんでしょうね。(笑)
株式会社デイトナ
管理部 部長
杉村 靖彦
#22
私が入社した1989年は1月に昭和天皇が崩御され、平成がスタートしたばかりの世の中で何かバタバタと慌ただしかったような記憶がある。私もその時はまさに人生の岐路にあり、現在までデイトナに籍を置くことになる出会いの年であった。
当時、入社面接で阿部社長(現相談役)と中村専務(上場後退任)から、経営理念を読みこの実現を目指してくれるかと問われた。また阿部社長から、素直、勉強好き、プラス発想が出来れば良いと言われ、学科試験などは一切なく受け入れてもらった。この時の約束はシンプルだが、現在までここにいる最も大切な存在理由である。
当時のバイク業界、会社共に成長期で非常に活気があり、また阿部社長もリーダーとして高い志を持ち、旺盛な成長意欲と行動力で次々と従業員に無理難題をぶつけ、叱咤激励しながら自らも忙しく駆け回っていた。この時、無理難題をぶつけられ解決にあたったのが、現社長の織田、現会長の鈴木などであり、この経験が今のデイトナの成長発展の原動力になっていることは疑いがない。両名にとっての阿部社長は今も恐ろしい存在であると推察するが、現在の阿部相談役は経営に口を出すこともなく穏やかで、最近入社する従業員は阿部相談役がそんな恐ろしい存在であったとは露ほども知らないことだろう。
株式会社デイトナ
GMDG GL
伊藤 博之
#23
● 自由 自己管理 難しさ
● 指示のない仕事 教えてもらうことは僅か
● 組織の無い組織 全員が目的を認識&理解 自ら結果を求め実行 グズグズ言わずまずは動く
● Henlyさんから面接時に「最初は営業」 入社直後、毎日約100件のTELセールス
● 前職は完全技術畑から全く未経験の営業からスタート
● 知名度の無いデイトナの営業出張では門前払いされるのは当たり前
● 大歓迎され昼食を訪問したお店の家族と一緒にちゃぶ台を囲んでの家庭料理をご馳走されることも
● 出張先の宿泊は当日の訪問先全店完了後、公衆電話で宿を確保 車中泊&ラブホ泊も当たり前
● パートさんに叱られながらのチャンバーBO出荷は全社員で
● 電話は1人2本取る(最高4本) 土曜日当番は片手おにぎり 電話~受注入力~出荷指示書~納品書
● アメリカナイズ社風 ほぼ全社員が集まる倉庫前でのフレンドリーなランチタイム
● 山盛りの灰皿と書類、そしてコーヒー パーティション区切りの個々のデスク
● 社内は基本ダッシュ移動
● 当時はシンドかった早朝会議とD2P訓練
● 厳しかったHenryさんからの教え
Lots of things that can’t be written here!
Anyway, I feel nostalgic for them….
前職の仕事をカンテツ後、バブル景気の1987年6月26日が入社初日。22歳デイトナ伊藤博之はここから始まる。その後約35年間、デイトナは止まること無く成長し続けています。迷惑を掛けっぱなしで、デイトナの成長スピードに自分は完全に周回遅れですが、これまでたくさんの経験と挑戦と失敗をさせていただきました。国内外のたくさんのお客様、国内外のサプライヤー様、媒体関係各社そしてデイトナ諸先輩方々 これらの多くの人に支えていただき、ここに書き表すことが出来ないくらいの感謝の気持ちで一杯です。
2022年4月8日・9日
名古屋モーターサイクルショーにて
(協力:webオートバイ)